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私はこの本を読んで、「地域づくりは地域の誇りを取り戻すこと」と言われる所以にはじめてピンときました。

「陸奥(むつ/みちのく)」という言葉は「道の奥」、つまり朝廷から見た辺境地という意味からきています。
「正史」とされなかった史実を紐解き、その生き様に触れていくことが、地域に暮らす人々を「辺境の脇役」から「物語の主人公」にしてくれる魔法となるのかもしれません。

 

<引用>

「私は「岩手は国に逆らったものが多くて恥ずかしい」と感じながら少年時代を過ごしていた。教科書の歴史年表を見ても、岩手県のことがほとんど出てこない。東北全体でも縄文時代との関連で青森県が出てくる程度だ。じぶんは何てつまらない場所に生まれてしまったのかと思っていた。たまに岩手の話が出てくると、国に逆らった人物ばかり。阿弖流為や安倍貞任だけでなく、九戸政実についてもそうだった。彼らは辺境にいたために大局を見定められず、無謀な反乱を起こした愚かな指導者たちと捉えられていた(p.11-12)」
 

「東北そして岩手には語るべき歴史が沢山あると分かった。教科書が教える歴史は中央の権力が残した「正史」に依拠しており、それをもって日本全体の歴史としただけでしかない。江戸時代は戦争がないから政治史となっている。老中がどんな政策を行ったかなど幕府を中心とした歴史で、南部藩がどうだったのか、津軽藩がどうだったのかはいっさい関係がない。平安時代は朝廷が中心で、鎌倉時代は源頼朝が樹立した鎌倉幕府のことだけ。それ以外の地域、ことに東北は完全に省かれてしまっている。各時代の中心を書き残すのが教科書の歴史で、そこから外れてしまうと何も記載されない。けれども歴史に記載されぬ東北で我々は生きていて、毎日ご飯を食べ、家族や友人と過ごしている。そうした事実など存在しないようみなすのが歴史の主流ならば、私は存在しないとされた側の歴史を書こうと思った(p.15-16)」


「東北は朝廷など中央政権に負け続けている。阿弖流為が坂上田村麻呂に、安陪貞任が源頼義に、平泉の藤原泰衡が源頼朝に、九戸政実が豊臣秀吉に、そして奥羽越列藩同盟は明治新政府により賊軍とされた(p.40)」


「(藤原)清衡は平泉に都をつくり、陸奥を自分の国にしたが、自分は権力者だという意識を持っていなかった。だからこそ、素直に浄土宗の理想の姿として提示することができた。(中略)平泉の世界文化遺産登録をユネスコが認めなかったのは、そういう国はあり得ないという理由だった。権力者がいながら万人平等を謳うなど言葉だけのことで、その実態を証明しなければ認めないと言ったのだ。東日本大震災が起きた時、被災地といわれる地域は、偶然にも福島、宮城、岩手など藤原清衡が支配した地、奥州藤原氏の文化圏だった。その被災地の人たちの、自分のことより他者の辛さを思いやる姿が、ニュースとして世界中に流れた。世界文化遺産の登録を申請していた平泉、藤和清衡がつくった国は、もともとこのような国だったのではないか、そのDNAが今に受け継がれているのではないか、そうユネスコに受け止められたことが、実は登録につながったのだと思う(p.133-134)」


「東北が攻められた理由はいつも同じではない。その都度、東北は時代を切り換えていく大きなポイントになっていった。東北は施政者によって「産物」をどんどん替えられていった。近代は兵士の供給地になり、現代は電力の供給地とされた。(中略)それは鎌倉幕府が東北に米を作らせたことにはじまる(p.170-171)」


「(土方歳三は)江戸時代から撤退して会津若松に行った時、理不尽なことは決して許してはいけない、駄目なことは駄目なのだ、という会津人の徹底した考え方、そして個というものを消し去る生き方に触れた。「ならぬことはならぬものです」この会津の言葉は、阿弖流為や九戸政実らが、ずっと描いてきた思いでもある。彼らが中央の権力に対して立ち上がった理由こそ「ならぬことはならぬものです」だった。東北の人は何事に対しても最後の最後まで我慢するのだが、そこにも超えてはいけない「ならぬこと」がある。松平容保公の命を差し出せ、という薩長の主張がそれだった(p.204-205)」


「東北人の特質は「優しい」「辛抱強い」「無口」だと、東北以外の地域の人たちに言われ続けている。長い間、東北人の勤勉さ・生真面目さを理解してくれている言葉だと、私も思い込んできた。(中略)そもそも、この評価は吉原の遊郭の主人が言い出したことだった。いわゆる人買いや女衒に「優しい」「辛抱強い」「無口」を、遊女を探す時の条件にしたのだという。(中略)天明や天保の大飢饉で、口減らしのため百姓の娘が大勢売り飛ばされた。女衒が江戸の吉原に連れてきた娘の七割は、東北出身だったと言われている(p.220-221)」