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1年半後にはじめて被災地を訪れた私に震災直後のことを話す資格はありません。
どれだけ当時のお話を伺っても、本を読んでも、それは自分の言葉ではないからです。
でも、想像することはできる。というか、それしかできないのだと思います。
当時のことを「理解できる」とか「分かった」と安直に形容することの意味のなさを、ここにいる多くの人たちは知っています。
だから、課題から目を背けず、いろんな言説に触れ、その土地や風景に思いを寄せながら生きる。それ以上でも、それ以下でもありません。
復興に関わる一人の人間として恥ずかしくない生き方をしたいと改めて思う、そんな一冊でした。

「消えたのは建物だけではありません。この土地に住んでいた多くの人たちも、住む家を流され、愛する故郷を離れて、遠いところへ引っ越していかざるをえなくなったのです。

憲一郎先生も例外ではありませんでした。歯科医院と自宅は津波で大きな被害を受け、診療をつづけることはもちろん、震災直後はそこに住むこともできなくなってしまいました。

それでも、憲一郎さんは歯科医師としてこの町にとどまり、ここでふたたび生き抜いていく覚悟を決めました。ここに残った住民の歯の治療をするという目的もありましたが、『この地でつづけていかなければならない大切な使命を、途中で投げ出すわけにはいかない』そんな強い信念が、心の奥底にあったからです。

憲一郎さんが抱いていた大切な使命、それは、震災で亡くなった犠牲者たちの「歯」を調べることによって、彼らの身元の確認をおこなうことでした。それはまさに、「人間の死」と向き合う、つらく悲しい作業です。

でも、たとえ死体やお骨になってしまっても、一人ひとりには、生まれたときからちゃんと名前があり、毎日を一生懸命に生きていたはずです。どれほど時間がたったとしても、その人にはかならず、帰りを待ちつづける大切な家族がいるのです(p.9-10)」


「このころは火葬場が込みあっていて、家族でお骨をひろい上げることはできませんでしたが、「火葬に立ち会えただけでも幸せだった」と、恵子さんは語ります。

「もしも歯で照合してもらえなかったら、母はどこのだれなのかわからないまま火葬されて、私たちは、母とは二度と会うことができなかったでしょう。だから、本当にありがたくって、ありがたくって…。憲一郎先生ご自身も被災してたいへんな状況のなか、母のカルテを一生懸命探し出して照合してくださったおかげです。私たちは母を亡くして、悲しい思いもたくさんしたけれど、いろいろな方々の優しい思いもたくさんいただきました。

けれど、まだ家族が見つかっていない人たちは、どんな思いで過ごされていることでしょうか。『寒いだろうな…。冷たいだろうな…。』って、ずっといなくなった家族のことを心配し、不安な気持ちを消せないまま、毎日を生きていらっしゃるのでしょうね」

その後も、遺体があるうちになんとか照合しようという憲一郎先生の必死の取り組みはつづきました。そして、この夏頃までに、ささき歯科医院の患者さんだけでも五十人近い人たちの身内を明らかにすることができたのです。

奇跡的に流されずにすんだ泥だらけのカルテやデータは、こうしてたくさんの犠牲者を、家族のもとに帰す役割をはたしたのでした(p.95-96)」